解離性障害とトラウマ、解離症状の「誤解」

解離性障害は、もっとも誤解されて誤診されている病気です。精神科医や心療内科医の中には、解離性障害をほとんど治療したことがないという人も結構いますし、解離性障害の症状を診ても統合失調症やうつ病と誤診しています。その誤診だけでも大きな問題ですが、見識や経験のある精神科医さえも解離性障害についてしばしば「誤解」しています。たとえば解離性同一性障害(DID、俗に言う「多重人格」)という病状を「医原性」の病気だとする、つまり医者と患者さんの間ででっち上げられた「物語」である、と誤解したり、全生活史健忘(俗に言う「記憶喪失」)を「詐病」、つまり患者さんが周りに嘘をついている演技だと決めつけるのです。

「解離」症状とは

解離性障害とは何か。解離性障害は「解離」症状を主症状とする病気なのですが、その「解離」症状とは何か、が実は説明しにくいところです。

解離症状を簡単に言うと、健康な人が「自分」「私」として普通にある現実感覚、この世界の中に自分が存在している、という当たり前の感覚が失われている状態と言えます。

たとえば、私たちが健康に生活している時、過去の自分と今の自分はつながっている感覚がありますが、解離症状の一種である「全生活史健忘」になると、自分の名前や家族、自分の過去の経験全てを忘れてしまうのです。そこまでいかなくとも、「ふと気づいたら遠くのある場所にいた、どうやって来たのか思い出せない」という解離症状(解離性とん走)もあります。

また、同じく解離症状の一種である「離人症」になると、現実感が無くなります。生きている実感が伴わなくなるのです。「離人」状態になると、物事に無感動、無感覚になり(この点で「うつ病」と誤診される)、自分が今ここに存在しているという感覚が希薄になります。好き嫌いという感覚も無くなり、時には痛みの感覚も無くなります(このような離人症の感覚に苦しみ、そこから脱して現実感を取り戻そうとしてリストカットなどの自傷行為に及ぶ人がいます。ここでもまた、うつ病と誤診されるわけです。)。離人症となり、今ここにいる感覚が希薄になると、過去の記憶と現在の感覚がごっちゃ混ぜになり、「デジャブ」(デジャヴ、既視感。初めての場所なのに過去に来たことがあると感じること)が生じることもあります。デジャブとは反対に、見たことがあるはずの風景を初めてと感じる「ジャメブ」(ジャメヴ、未視感)という感覚も生じます。

重い解離状態になると、記憶があいまいになり、過去に見聞きしたことが普通に「思い出される」感覚も損なわれます。そうなると幻聴が生じたり幻視が生じます(解離性幻覚)。解離性幻覚は過去の記憶の蘇り(フラッシュバックとも言えます)なのですが、当の患者さんは記憶が「思い出された」自覚が無いので、自分の記憶ではなく「外」の出来事と錯覚し、「○○と聞こえた」などと訴えます(この点で統合失調症と誤診されます)。解離性幻覚の一種としては、「後ろに誰かがいる」「霊感」と感じる人もいます。このような解離症状はとても不気味なので、パニック発作を起こすことがあり、解離性障害とパニック障害の両方の症状を持っている人も珍しくありません。

解離性障害の原因

解離症状について説明しましたが、どの解離症状にも共通するのは、本来「自分」「私」の心の中に当然ある現実感覚が「自分」から切り離されている、ということです(それが「解離」という言葉を使う意味です。)。
言い方を換えれば、解離状態になるということは、現実と距離感を置く、ということになります。人がどうしても辛い現実に面した時、「これは現実じゃない、嘘だ」と否認して身を守ることはよくあります。癌宣告を受けた時、家族が急死したとの知らせを聞いた時、愛していた人からの裏切りを知った時、思わず「嘘!」と叫んでしまう心理の延長に解離症状があるのです。
そう考えると、虐待や犯罪被害といったトラウマを負った方に解離症状が生じることが多いのは納得いただけると思います。

それでは、解離症状の原因はトラウマだけなのでしょうか? 解離症状がある患者さんは何らかの辛い体験、トラウマを負っているの被害者なのでしょうか?
ここが微妙なところですが、「トラウマ」という言葉を「被害」と結びつけている限りでは、「解離=トラウマの存在」という図式は間違っていると言えます。
たとえば、私が診療した全生活史健忘の患者さんの一人は、犯罪の加害者でした。彼は、ある傷害事件を起こした後、自分の行いが「信じられない」と思い(もっと正確に言えば、無意識的にそう考えて、彼の心・意識の上では「悪い自分」を「解離」して)、自分の人生を忘れてしまったのです。犯罪の加害者にもトラウマは生じる、という事実はトラウマの治療者の間では以前からわかっていましたが、他人を傷つけた人間がトラウマを負った、と表現するのは長い間はばかられてきました。最近になってようやく一般に知られるようになりました。

しかし、このように犯罪の被害や加害、トラウマと解離症状の関係が取り沙汰されることが多いことも、解離性障害が「誤解」される原因の一つです。とかく、犯罪の被害や加害の話は、それを聞く方の精神科医やカウンセラーの心にも強い衝撃を与えますので、治療者側の思考停止をもたらします。つい、「解離症状=トラウマ」と短絡的に考えてしまうのです。

実は、解離性障害は、犯罪やトラウマと関係なく生じることもあります。
子どもや発達障害、知的障害の方を診療・カウンセリングした経験が豊富な治療者ならば、特にトラウマ的な出来事がなくても、日常の状況、軽いストレスでも解離症状は生じることをよく知っています。特に、高校生以下の子どもには、解離症状は珍しくない症状です。たとえば、健康な中学生でも、中学に入学して好きな部活に入ってみたのは良かったものの、先輩後輩関係の厳しさやシゴキに耐えられなくなったとか、自閉症スペクトラムの小学生が運動会で全体行動をする練習についていけなくなった、といった状況でも解離症状が生じることがあります。

こうして考えてくると、解離症状は、ある人が自分の心のキャパを超える状況にぶつかった時に、生々しい現実と離れる、という手段を使って身を守る防衛の形だとわかってきます。解離症状の「原因」を考える時には、過去のトラウマの有無や現在の状況のみでなく、苦しむ人の性格や体質を考え、総合的に判断することが大事です。

解離症状はなぜ誤診・誤解されるのか

なぜ解離症状は誤診されるのか。先にお話ししたように、解離症状が他の症状と紛らわしいということはもちろんですが、他にもいろいろな要因があります。

解離性同一性障害(多重人格性障害)や全生活史健忘といった「派手な」解離症状はさずがに医者じゃなくても誤診しませんが、離人症はよく誤診されます。その大きな要因は医師側の経験不足です。精神科・心療内科の診療では、患者さんの訴え・症状を問診で聞くときに、いろいろな可能性を考えながら丁寧に聞くことが大事ですが、これには経験とトレーニングが必要です。

誤診の理由は他にもあります。昨今は患者さんが自分の症状をネット検索して自分で病名に当たりをつけてきます。「チェックリストでうつ病と出た」からメンタルクリニックを受診した、というケースはありふれています。しかし、解離症状のチェックリストをチェックして自己診断してくる人はほとんどいません。これは、実際にうつ病の患者さんが多いことや、抗うつ薬を売りたい製薬会社側のマーケティングの影響が大きいと思いますが、それはともかく、患者さんの自己診断に乗っかって医師としての思考を停止する精神科医が解離性障害をうつ病と誤診するのは問題でしょう。

今一つ、精神科医や心療内科医の側のもう少し根深い問題があります。うつ病は抗うつ薬で治療できるけど、解離性障害は特効薬がない(本当はそんな簡単なことではないのですが)、という事情もからんできます。一般に医師は、自分の得意なフィールドを「専門」として、境界分野の診療を怠る傾向があります。解離症状はありふれた症状であるにもかかわらず、精神療法・カウンセリング・環境調整が必要になることが多いので、そういうことが不得意で薬物療法一本槍の医師はどうしても無意識に自分の得意分野であるうつ病や統合失調症の診断に引き入れてしまいます。

また、先にお話ししたように、解離性障害の患者さんの中に犯罪的行為の加害者がいることも、精神科医側の解離症状への嫌悪感の一因でしょう。私の経験例でも、加害者の解離症状を取り扱うことは大変でした。周囲をさんざん引っかき回し、暴力的な人間もいます。刑罰から逃れるための詐病と紛らわしい例もあります。加害者ではなくとも、攻撃的な人もおり、暴言を吐かれることもあります。そういうケースでは、治療する医者の側にトラウマを引き起こすことさえ珍しくありません。このような事情があるので、心温かい医師だけれども解離性障害を嫌悪する医師がいることには、私も理解できます。しかし、解離性障害の患者さんは、犯罪の加害者よりも被害者である方がずっと多いので、解離性障害の患者さんが治療者に敬遠されるのは悲しいことだと思います。

こうして全般に考えると、確かに解離性障害やトラウマを治療するのは、治療者側の労力・センス・忍耐力を必要とするのですが、やりがいや喜びも大きいものです。解離性障害は、しばしば劇場のように病状が急展開します。錯乱や自殺寸前の状態であった方が、憑き物が落ちたように突然元気になることもあります。解離性障害からの回復には本当に様々な形があります。その回復過程の中、目まぐるしく変わる状況の中でその都度治療者が何をすべきか考えること、私たち治療者の心身の健康を保ちながら患者さんを援助していくにはどういう体制で治療に当たれば良いか、ということを身をもって考える経験になり、治療者側の成長に役立つことになります。