環境・時代の変化と精神疾患[11] ~沖縄での経験から~

日本人が忌む「穢れ」

前回の稿で、日本の「穢れ」恐怖症ともいうべき文化と精神疾患差別につき触れました。

昨今いろいろありますが、日本は世界に誇るべき「美しい国」だと今でも私は思っています。

しかし反面、あまりにも潔癖すぎると思うこともあります。

私たちが神社に参拝すれば手や口をきれいにする儀式から始まるし、家族同士でも箸や湯飲みは共有しないことがあるし、「死」や「苦」を思い起こされる4や9といった数字は忌み嫌われ、トイレは無菌なほどにまできれいに設計・管理され、日本の便器は世界一高度な技術が導入されて外国人を驚かせており、人の自然な体臭は嫌われており、消臭グッズの種類も世界一ではないでしょうか。

動物の肉を食し、動物の皮から作られた革製品を使いながらも、それらを提供してくれる職人さんを「えた(穢多、皮多)」と呼んで差別してきたのも理不尽なことに思われます。

このように「穢れ」を怖れる日本文化の淵源は、古代まで遡るようです。

10世紀の『延喜式』にとりあげられている「穢れ」には、人の死・産、家畜の死・産、肉食、改葬、流産、懐妊、月事、失火、埋葬などがあるそうです。

しかも、「穢れ」は伝染すると考えられていました。
例えば亡くなった人と同じ場所にいた人がその場を離れた後、訪問した先の家は(当然その家の人は死んだ人を見てもいないのですが)一家全員が「穢れ」を帯びるとされていました。

その家の一家全員が30日間軟禁状態になったと言われます。(『葬式仏教の誕生』松尾剛次、平凡社)

古代に度々遷都が行なわれたのも「穢れ」への恐怖からだった、とも言われています。

日本列島の東西で異なる認識

歴史学者網野善彦氏によると、差別については西日本と東日本ではずいぶん意識が違い、最近でも大学で「どうわ」問題につき講義すると、関西の大学ではすぐに「同和問題」として理解されるのに、関東では「童話問題?」としてキョトンとされるとのことです。

同じ日本列島とは言っても、東西でずいぶん異なることがあります。

網野氏が取り上げている日本の風習について、今回の私のテーマから見て興味深いものがあります。

赤ちゃんが生まれてくるときに胎盤も一緒に出てきますが、その胎盤は「えな(胞衣)」と呼ばれてきました。

その「えな」の扱いが東西で違うのです。

東日本では「えな」を家の出口に埋めるか辻(交差点)に埋めるかして、「えな」が多くの人に踏まれると赤ちゃんが丈夫に育つと考えるのに対して、西日本では「えな」を母屋の奥で人が入らない場所に埋めておくそうです。(『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』網野善彦、岩波現代文庫)

西日本では動物の肉や皮だけでなく、私たち自身の肉をも「穢れ」としてきたことの傍証でしょう。

考えてみれば、先に挙げた『延喜式』で「穢れ」とされたことは、私たちが生きること、なかでも生老病死に関わる自然現象です。

私たちの肉体に必然的に起きる現象を「穢れ」として忌み嫌うのです。

日本文化では自然な素材を生かして四季の移り変わりを感じることを理想とする、それは日本の建築や料理にもよく表れている、自然を単なる資源やモノとして扱う西洋文化と違う、などとしばしば言われますが、どうも日本では、人間の生理的現象については「自然」とせずにタブー視をしがちのようです。
それでは、沖縄の事情はどうでしょうか。

独特だった沖縄の事情

私は沖縄に行く前には向こうの風習について無知でした。

私が赴任した病院の敷地内ではヤギを飼っていました。(今なら「日本病院評価機構」の人に「不衛生」として怒られそうですが)

毎日毎日、精神科病棟の入院患者さんが野山に草刈りに出かけ、それを餌としてあげていました。
ヤギの好む草を選び、ヤギの表情をよく観察し、子ヤギが生まれれば皆でかわいがっていました。

昨今流行の、「アニマルアシステッドセラピー」の一種と言えるかもしれません。

ただ、西洋流の「アニマルアシステッドセラピー」と違うのは、祭りの時になると山羊を屠殺して食べることです。

動物をかわいがりながらも大事な食べ物として感謝していただく、それは古来人間が行なってきた行為ですが、昨今では野蛮な行為として見なされかねません。(現在の沖縄はその文化の過渡期にあるのかもしれません。

自宅で飼っている山羊をそれとは知らされずに食べたことがショックだった、との話を沖縄の小学生が書いていた作文を最近読みました。

ただ、その文章の主人公の少女は、かわいがっていた山羊が調理されてしまったことにショックを受けながらも、最後には食べて、「おいしかった」の感想で話を終えていました。

沖縄らしい、健康的な話だと思います。(アメリカなら「虐待」とか言いかねないような話でしょうか。)
沖縄の食事に関する風習として興味深いものですが、沖縄では春の「清明祭」になると、大きなお墓の前に親族が集まり、みんなで飲み食いするのです。

墓地でピクニックをするような感じに見えますが、立派な宗教行事です。

お墓の前で一族が一緒に飲み食いし、語り合う、食べて飲みながらたくさん喋り、くつろぐ、その輪の中にご先祖も一緒になって飲み食いしていると考えるそうです。

ごちそうをいただく時に「おいしい」と感じている今この時に、ご先祖に生かしてもらっているというありがたさを感じる――それはあの世の魂とこの世の心が、または、形而上の世界と形而下の世界が分断されることなくつながっていく文化的風習に思われます。
このような沖縄文化では、「摂食障害」という病理は起きにくいものです。

摂食障害は沖縄では起きにくい

摂食障害については、「(大人になるという)成熟拒否」の病理だとか(これも一つの「穢れ」意識と言えそうですが)、心が肉体をコントロールするというゆがんだ万能感の表れだとか、いろいろ言われてきましたが、その患者さんの「身体感覚」が麻痺してしまっていることは熊木先生がつとに指摘しているところです。

心が肥大化して体を無視するようになり、そこに倒錯的な快感(食欲を「克服」する)を感じるようになる、そういう病理が摂食障害、中でも拒食症の人に顕著ですが、沖縄では、「清明祭」の行事に表れているように、心と体をつなげるような文化装置がいろいろとあるので、摂食障害という病理は生じにくいのです。(実際に、20年前に私が沖縄にいたときに、「沖縄県で初めて摂食障害の患者が出た」と、精神科関係者の中でニュースになったくらいです。)
しかし、どのような文化でも社会においても、心や体は不調を来します。

沖縄は理想郷ではありません。

沖縄では心と体の不調をどのように見てどのように対処しているのか、次回以降で見ていきたいと思います。

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