統合失調症の急性期への接近法

統合失調症の急性期に見られる、いわゆる精神病状態は、それを経験したり、その状態の人に接したりしたことがない人にはなかなかわからないものですが、壮絶な状態です。

その状態は、自分が何なのかどこにいるのかわからない、世界と自分の境界がはっきりしなくなってわからない、その状況を表現する言葉がわからない状態であり、その状況を言葉や行動で表現しようとすると自分でも混乱して他人にも伝わらず、更なる深みにはまりこむ、言語を絶する世界です。

ある患者さんは、元の自分に戻ろうとするためでしょうか、自分の正気を確かめようとするためでしょうか、自分の名前を繰り返し大声で叫び、そのうちに名前の頭の一文字だけを間欠的に叫ぶのみとなりました。

患者さんがそういう大変な状態にある時、周囲の人は何とかしてあげたいと思いながらも近寄りがたいものを感じます。私たち医療者でも、初心の頃はそう感じるものです。

そういう患者さんは、一人静かな部屋にいさせてあげても、わずかな音にも反応して再び叫び声を上げたり、時には自分を激しく傷つけたりします。

「そんな急性期の統合失調症患者には抗精神病薬を注射すればいい」とあっけらかんと単純に言う精神科医も多いのですが、急性の精神病状態にある患者さんに無神経に接近すれば、 後々にまで残るようなトラウマを作り出しかねません。現在私の所に通っておられる患者さんの中にも、入院中の医療者の対応がトラウマになっている方もいます。医療者から受けた乱暴な処置や心ない言葉をいつまでも忘れられずにフラッシュバックする人がいます。

「魂の危機」とも言える、精神崩壊の状態にある急性精神病の患者さんに接する態度はどうあるべきか、という問題については、抗精神病薬が無かった時代の方が現在よりももっと深く丁寧に考えられていたようにも思えます。

抗精神病薬が無かったその昔、いかにして精神病状態の患者さんに接近していくか、良心的な医療者は文字通り体を張って患者さんに接したものです。『精神病者の魂への道』(シュヴィング、小川信夫ら訳、みすず書房)という本の中では、看護師シュヴィングが、全く拒絶的であったり暴力的であったりする患者に対し、ただ毎日同じ時刻にベッドサイドに行って黙って横に座るだけ、とか、暴力行為のために身体拘束されている患者に「なんとかしてあげたい」と伝え続け、時には「私を見たくないのね(それならそれでいいのよ)」とだけ伝えて最低限必要な身体ケアをして静かにその場を去る、という地道な行為を繰り返し、そのうちにだんだんと患者との治療関係ができてきて状態が良くなってくる、というケースがいくつも描かれています。私たちの業界で「シュヴィング的アプローチ」と呼ばれるものです。(今の若い精神科医は抗精神病薬か電気けいれん療法(ECT)にばかり頼ってシュビングの名前さえ知らない人もいますが)

私が精神科医になった頃は、その「シュヴィング的アプローチ」は決して簡単なものではないけど、基本として収得すべき姿勢であると教えられてきました。急性精神病状態にある人に話しかける時には、言葉は短く、その言葉には複雑な意味の含みは持たせず、言葉の内容を工夫するよりも声の調子を大事にし、暖かく包むような口調が大事 (シュヴィングと同時代の精神科医ハリー・S・サリヴァンが「(統合失調症の患者さんには)ヴァーバルセラビーよりヴォーカルセラピー」、つまり、言葉の内容よりも声の質が大事、と強調しています。)と教えられてきました。

私は、阪神大震災前後の神戸での臨床で、たくさんの急性精神病状態・統合失調症の患者さんを診療する機会を得て、先輩の精神科医が「シュヴィング的」な姿勢を織り交ぜながら治療に当たっているのを見ました。ある先輩の先生は、言葉を発することができない患者さんの脈を取りながら自分の脈を同期させ、患者さんがどういう状態にあり、どういう環境刺激に反応しているのかを理解する、と話しました。私はその技術を習得すべく、先輩医師の姿勢や声の調子を真似していました。その習得には数年を要しましたが、現場で学ぶ以外に方法がない姿勢を学ばせてもらった先輩方には感謝しています。

「シュビング的アプローチ」は、極限の精神の危機にある患者さんへの接近法ですが、精神病状態に限らず、あらゆる苦悩を持つ人に接近するために有効です。それは、「情報」として得られる小手先の手法ではなく、苦しむ人を目の前にした現場で「なんとかしたい」思いを持つ者が長年かけて習得する姿勢です。ですから、患者さんのご家族が習得されていることも多いのです。私は、診療場面では当然のことですが、精神科医やカウンセラーが本物か偽物かを見分ける時、シュビング的な感覚を大事にしています。