心療内科医として必要な知恵は全て下町の商店街で学んだ

『人生で必要な知恵は全て幼稚園の砂場で学んだ』という本があります。昔読んだ覚えがありますが、内容の多くは忘れてしまいました。しかし、その本の題名と本の主題については覚えていて心に残っています。

大人になってから子ども時代を振り返り、今の自分と子ども時代の自分が結構つながっていること、子ども時代に見知ったことが後の自分の人生の糧になり、人生を規定したようだと気づくこと、「人生で必要な知恵は全て幼稚園の砂場で学んだ」という実感は、私にもあります。ただ、「幼稚園」の時点で世の中が見えていたか、と言われると、それはあまりにも幼い時期なので肯定し難く、私にとっては中学生くらいまでに名古屋の下町の育ちの中で「生活」を学んだことが今の仕事に生かされている、と思います。私の実感で言えば、「心療内科医として必要な知恵は全て下町の商店街で学んだ」という感じです。

八百屋、魚屋、寿司屋、金物屋、うどん屋、パチンコ店などの専門店が軒を並べる商店街自体、今の大都市でもほとんど消滅してしまっていますが、昭和40ー50年代には各都市にはいくつもあり、ほんとうに活気があったものです。それらの店は、「伊藤屋」「河合屋」などと店主の苗字で呼ばれることも多く、私の親の店も屋号には含まれていないけれども「水谷さんとこ」と呼ばれていました。平成の今、多くの精神科診療所が「やすらぎ」「すばる」「きらめき」「せせらぎ」などとの一見かっこいいフレーズと「メンタルクリニック」という外来語(?)を組み合わせたような屋号を標榜する中にあって、時代錯誤的に「水谷心療内科」と標榜したのも、このような私の生い立ちからのことと思います。(患者さんに「水谷に行ってきた」「水谷さんとこ」と言われると嬉しくなります。)

私の親の店だけではありませんが、当時の商店は、顔が見える、「お互い様」の関係がありました。当時既に「ダイエー」のようなスーパーは商店街の近くにあり、そちらの方が肉や魚や野菜を安く売っていましたが(品質はともかくとして)、あえてスーパーでは買わずに、商店街にある顔見知りのお店で買うことを選ぶ人が多くいました。

下町の商店街は、あらゆる人を許容する場でした。私の親の店はお客さんとの関係から、「聖教新聞」「赤旗」「中日スポーツ」などの新聞を購買していました。エホバの会の冊子なども含め、いろいろなものが並んでいました。うちにいらっしゃるお客さんも様々で、お金持ちを絵に描いたようなキラキラの出で立ちで来られる人、学校の先生、入れ墨の入ったコワモテの人、木賃宿に泊まり歩く、今で言うホームレスに近い人など、社会の中のありとあらゆる人がいました。中には精神障害の人もいて、能面のような顔をしている人(「薬剤性パーキンソン症候群」であるとわかったのは10年ほど後のことです)、突然体を痙攣させる人(やはり後に「チック障害」と知りました。)、独り言が止まらない人、たまに過呼吸を起こす人など、いろいろな人がいました。私は、嫌でも時々店を手伝わされたので、作業をしながら、いろいろなお客さんを見てきました。

ある日、私が学校帰りに親の店に寄ると、店先の椅子で、私たち少年の間でも有名なホームレスの酔っぱらい(『あしたのジョー』に出てくる丹下段平のような逞しい人で、日雇い労働で働いて得たお金をお酒に使って、私たち子どもの草野球に入り込んできて「一本打たせて」と頼んでくるおじさん。おじさんが握ったバットは酒臭くなるほどでした。)がワンカップ大関を片手にうちで焼いた焼き鳥を食べていました。私はそれを同級生に見られるのが恥ずかしく思い、親に対し彼を追い払えないものかと頼みましたが、親は「お客さんだからね」と答えるだけで、私の頼みを聞く姿勢は全くありませんでした。今にして思えば、良き教訓を得たと思っています。お金持ちだろうが日雇い労働者であろうが、お店に来てくれている時は「お客様」として同等に応対すること、それが本来の「おもてなし」であり、「お客様は神様」の精神だと思うのです。

昨今、「患者様」という言い方が流行っていますが、コンビニ店員のマニュアル通りの言い方だけで、言葉は丁寧だけども心はこもっていない、という医者が多いのです。

私は、下町の商店街の店の息子であり、一時は生活保護を受けていた家庭の出ですから、そのような偽善については鼻が利くと思っています。医学部に入り、周りの多くはお金持ちの御子息であり(30年前の当時で多くは私学の進学校の卒業者でした)、臨床研修の最中でも、先輩医者が生活保護者を裏では差別し、「生保、そんならあの検査しとけ、〇〇(まだ薬効も定かでない新薬)出しとけ」などと言う(このフレーズは医師になっても何度聞いたことでしょうか)のを聞き、心の中では寂しく、「違う」「間違っている」と思っていました。時には先輩であっても抗議しました。

当時は「医局」に所属し、精神科の臨床の師匠を選ぶ時代でしたが、母校の先輩に「下町感覚」を共有される先生に巡り会えなかったので、外部に求めました。当時、「人間学的精神医学」を標榜し、御著書も多数ある先生の講演も聴きに行きましたが、講演では人間愛に関する立派なことを話しながらも、陰では「分裂病、あれは遺伝だね」とあっさりと差別的な発言をするのを耳にし、辟易しました。

その時に、中井久夫の本を読み、その文章だけで「これは本物」とわかり、神戸大学精神神経科の門を叩きました。そこに入らせていただき、精神科臨床の「本物」とは何か、を身をもって知らされました。これについては改めて書きたいと思います。