<うつ病的リアリズム(抑うつリアリズム)理論とは>
うつ病の人は、正常とされる人々と比べて、現実をしっかり把握していると主張する理論があります。それが「うつ病的リアリズム(抑うつリアリズム)depressive realism」理論です。
うつ病的リアリズムという理論は、私たち精神科臨床・心理臨床の現場から生じたものではありません。この理論は、心理学の中でも実験心理学という、心理についてのバーチャルな実験検証から生まれてきた理論です(実験心理学者はカウンセリングなんてせずに動物実験や質問調査、統計処理ばかりしています)。うつ病的リアリズムの基礎づけになった実験について具体的な例を挙げると、例えば、あるランダムな信号の点滅に対し、たまたまタイミングを合わせてボタンを押すことができると得点が付く、というゲームをする実験において、ゲーム成績が良かった人たちにインタビューすると、健常者は自分の洞察力に関する実力が点数に反映された、と自己満足的な捉え方をする(ポジティブ・シンキング)のに対して、うつ病傾向のある人は、得点が良かったのは自分の力ではなく、偶然の運であった、と現実的な評価をする傾向が強いのです。このように、健常者の方が希望的観測をしやすいので、ただの偶然を自分の実力とみなして幸福感を感じやすいのですが、一つ間違えば詐欺に引っかかりやすい性格でもあるわけです(たとえばパチンコで、実際はコンピューターが計算して当たり玉を出しているだけなのに、自分が上手く操作したので勝てたと思えるかどうか、と考えてみるのがわかりやすい例でしょうか)。
こんな実験から導き出された理論、すなわち、うつ病傾向の人の方が一般の健常者よりも現実認識において優れている、と考えるのが、うつ病的リアリズム(抑うつリアリズム)という理論なのです。
実際、うつ病の人は、一面では現実的に「正しい」認識をしています。その点については、私も以前に書きました(うつ病と「正しい」思考)。
そのように、うつ病の人の思考、それは得てして悲観的な思考なのですが、結構現実的な思考でもあります。ただ、うつ病的リアリズム(抑うつリアリズム)という理論は、もう一歩踏込んで、うつ病の人の現実認識は健常者よりも優れている、とします。
そのような「うつ病的リアリズム」の考え方からすれば、認知行動療法と称してうつ病の人の「非現実な」「ゆがんだ思考」を直す、という考え方は間違っている、と言えます。なぜなら、「うつ病的リアリズム」の考え方からすれば、うつ病の人は一般の健常者以上に現実的に正しい考え方をしているのだから、直すべきはむしろ一般健常者の考え方であって、うつ病の人の現実認識ではない、と言えるからです。こうなると、「うつ病的リアリズム」の理論は、私たちが普段行なっている認知行動療法と対立する考え方に見えてきます。
私たち精神科臨床の現場でうつ病治療に当たっている立場からすると、うつ病的リアリズム(抑うつリアリズム)理論については、部分的には正しいところがあるものの、誤っているところもあると思います。
うつ病は、ある程度以上の病状になると、現実認識が大きく誤った方向に行きます。うつ病の三大妄想として、心気妄想(自分が癌などの大変な病気にかかっていると思い込む)・罪業妄想(他人に対して大変失礼なことをしたとか、他人を病気にさせたとか思い込む)・貧困妄想(お金は十分あるのに「暮らしていけない」と思い込む)がありますが、重度のうつ病になると、このような妄想が出てきます。その場合、患者さんは非現実的な思考に支配されて自殺しかねませんから、現実かどうかを議論することは無意味であるどころか有害でさえあるので、私たち治療者は患者さんに対し、「あなたがそう考えるのはもっともなことですけど」などとまどろっこしい言い方をせずに、「あなたはうつ病という病気にかかっています。今はいろいろ考えても混乱を深めるばかりですから、まずはよく眠ってよく食べられる状態になってから、後日御心配のことについて再度話し合いましょう。」などと話します。
そこまで重いうつ病の状態でなくても、うつ病の人の現実認識が常に健常者より優れているとは言えません。うつ病の人は、自己価値観が低く、自分の能力を低く見積もります。仕事ができているのにできていないと考えたり、友達に大事にされているのに嫌われていると思ったりします。現実よりも悲観的な方向に考えがちなのです。
しかし、私の日頃の診療の中では、うつ病の人はしっかりと現実を見ているな、と感心することもあります。特に、自分にとって大事な家族や治療者のことはよく観察できていると思います。たとえば、それまでの主治医を見限って私のところに転医してこられた患者さんの話を聴くと、前の主治医の表情や言葉を細かに観察した上で、その医師が表面的には優しいそぶりをしていても自分のことを大事に考えてくれていなかった、と結論づけているのですが、それにはリアリティがあります。私が前主治医を知っている場合には、患者さんとのやり取りが目に浮かぶように理解できるほどです。
うつ病症状の重い患者さんでもそのようなことがしばしばあります。発病前よりも人間観察の能力が増したように思われるケースも珍しくありません。
そういう現実がありますから、うつ病が軽くなったり寛解した時には、彼らは現実認識において優れた能力を発揮します。以前に紹介した『一流の狂気』の中では、双極性障害の人が天才的な仕事をすることが紹介されていましたが、うつ病の患者さんも現実判断につき優れた洞察を発揮することがあります。チャーチルがヒットラーの台頭を軽視せずに警戒したように、危機の察知とその備えについてはうつ病の患者さんは優れているのです。ただ、それはあくまで、軽いうつ状態の時か、うつ病が治った時です。
このように考えると、うつ病的リアリズム理論は、うつ病が軽くなった時か治った時期に当てはまるようです。
うつ病を患うと、仕事や家族、金銭など、大事なものを失う方も多く、うつ病を患って得したことなど何一つ無い、とおっしゃる患者さんも多いのですが、うつ病的リアリズム理論の主張するように、うつ病が治れば優れた能力を発揮できる可能性があります。それは、双極性障害の人のようにリーダータイプではありませんが、もの静かながらも透徹した現実認識能力を持つ人として、身近な人に厚く信頼されるようになります。うつ病を克服して発病前よりも確固たる人間関係を作り、充実した人生を送っている人はたくさんいます。
そういう現実から、私はうつ病的リアリズム理論に注目し、個々の患者さんが潜在的に持っている現実認識能力の高さを引き出すためにはどうしたら良いのか、という視点で、うつ病の治療・カウンセリングに利用できるヒントを探しています。