「一度死んでみる」ということ:「死にたい」人と「死なせたくない」人へ

私たち精神科・心療内科の医師にとって、患者さんの「死にたい」という訴えは、しばしば聞くことですが、その都度聞いていて辛いものですし、その実行は絶対にして欲しくないことです。

一方で、精神疾患や身体疾患の症状に長らく苦しまれている人、また、症状だけではなく、仕事や家庭などの辛い環境などにより、ひどい苦しみを受け続けている人が「死にたい」と思っても致し方ない、と治療者としての私たちが共感することがあるのも事実です。

この問題について、精神医学の症状学では、「死にたい」気持ちは「希死念慮」という症状、中でも、うつ病によく生じる症状だと規定します。しかし果たして、「死にたい」と思うことは病気の「症状」なのでしょうか?

それに対して、精神科医の神田橋條治(私は彼の承認も得ていない、勝手な自称の弟子ですが)は否定します。「死にたい」という気持ち、医学用語で言う「希死念慮」は症状ではない、と断言します。神田橋によれば、「死にたい」という気持ちは、うつ病の苦しみから生じたものであっても、気分が落ち込む(抑うつ気分)、何もしたくない(意欲低下)、物事に興味が持てない、喜びの感情が無い(アンヘドニア)、といった症状とは次元が違うのです。うつ病になれば抑うつ気分や意欲低下といった症状は生じますが、「死にたい」という気持ちは、うつ病の症状の苦しみから逃れたいとか、家族に迷惑をかけたくない、生き恥を晒したくない、といった判断や動機があってのことなので、あくまで、症状に悩んだ末の、患者さんの能動的な判断、症状への対処である、と神田橋は言います。つまり、症状に悩む人が症状への対処として(最近流行りの言葉で言えば「コーピング」)、自死という行為を思う訳であって、それはあくまで能動的な意思や行為なので、それを医学的な症状、たとえば発熱や幻覚のような症状と同列にするのはおかしい、と言うのです。また、一方で、自死という行為は、人が一生に1回しか使えない、究極の対処法でもあります。

ですから、「死にたい」という訴えを聞いたら、医者であろうがなかろうが、「うつ病の症状」という、相手から距離を取った、冷めたスタンスで接するのではなく、まず相手の気持ちを正面から受け止め、その後に、相手がどんな事情で自死という対処法を考えるに至ったのか、を事細かに聴いていくことが大事です。そういう意味では、相手の話も詳しく聞かずに「死ぬなんて言わないで、考えないで」なんて応答するのは間違っています(ここで「間違い」と言うのは、私たち精神科心療内科の医師や心理師などの専門家に向けてのことです。一般の方々、患者さんの家族がそういう応答をするのは致し方ないことです。死について考えたくない、聞きたくない、という人々を悪いと否定はできません。)。

神田橋は、「死にたい」と訴える患者さんの気持ちを受け止めて、そう思うに至った経過や心境を理解、共感しようとします。そのような対話を経て、長くて辛い苦しみを経てきた患者さんが死にたいと思うに至った経緯を聞いて理解して、「死にたい」という気持ちは肯定しますが、やはり、少なくとも治療の継続によって症状や苦しみを軽減させることができる、うつ病などの患者さんに自死を遂げられることは治療者として苦しいばかりですので、患者さんを説得します。その際に神田橋は、「死にたいと思うのはうつ病の症状だから」「死ぬ時に後悔しないか」「ここで死ぬのはもったいない」「あなたが死んだら家族を悲しませないか」といった野暮な説得はしません。ズバリ、直球勝負で、「あなたが(自死で)亡くなったら(治療者の)ボクが苦しくなるのでボクのために(自死を)しないで欲しい」と伝えるのです。自死をする患者さん自身や家族が苦しむから、と説得しても、本気で死のうと考えている人には全く通じないので、治療者がお願いする形で、ただ切に訴えるのです。この神田橋の治療姿勢は、患者さんにとても伝わるものだと思いますし、これ以上の説得法は無いと思います。(私がここで「説得」という言葉を使っているのは、神田橋から「未熟者」と叱られそうです。これは「説得」ではなく、命あるものが命を落とそうとしている危機にある仲間に向かってのお願いであり、祈りなんだよ、と注意されそうに思います。)

その神田橋條治が、「死にたい」と思っている患者さんに対して、自己治療として勧めているのが、「1回死んでみる」という思考実験です。(彼の著書『精神科養生のコツ』に詳しく書かれています)

その内容は、『精神科養生のコツ』を読んでいただくと良いのですが、簡単に言えば、「死にたい」と思っている人に対して、頭の中で自死を試みて、なるべくリアルに、詳細に自死の光景や経過を思い浮かべてみて欲しい、ということです。たとえば、自分はどうやって死ぬのか、その時の痛みや苦しみはどうなのか、死んでいく瞬間に何が思い浮かぶのか、意識を失った後、自分の体はどうなるのか、家族や友人、主治医らはどういう反応を示すのか、自分の遺体や遺骨はどう扱われるのか、葬式の弔辞ではどのように自分のことが語られるのか、死後10年経って、残された遺族、また、新たに生まれてきた子孫は自分の自死のことをどう受け止めるのか、などなど、とにかくありとあらゆることを細かに想像して、リアルに思い浮かべて欲しいのです(ここに挙げた想像の例は水谷の思いつきも多々混じっています。文責は全て私、水谷にあります。神田橋先生の意図が間違って伝わってしまうことを怖れます。)

この「1回死んでみる」という思考実験は、自殺未遂で終わって生き延びた方々の証言からも、妥当なことのように思います。自殺未遂者へのインタビューはあちこちでなされていますが、彼らの多くが語っていますが、自殺行為を図った瞬間にはスッキリした快感またはそれに近いものがあったものの、生き残ったことについては良かった、と述懐することも多いのです。つまり、自殺未遂に終わって良かったと思う人が多い、という事実です(私の患者さんたちの経験でもそのように話されたことは多々ありました)。また、そういう方々は、自殺未遂という行為、「1回死んでみた」ことによって、人生のやり直し、言わば2回目の人生を新たな境地で歩むことができるようになったと思います。禅の修行僧が、飲まず食わずの荒修行を行なって悟りの境地に達した、というのに似ていると思います。

ただ、禅の荒修行でもそうですが、命がけの行為、一か八か、という行為をするように、実際に危険な自死を試みることは、とても勧められるものではありません。未遂に終わっても、重度の身体障害が残ることだって珍しくありません。脳死、植物人間と言われるように、意識が無いまま体だけは生きている、という状態にもなり得ます。

そこで、神田橋條治は「1回死んでみる」という思考実験、想像を勧めるのです。頭の中で考えて想像して「死んでみる」こと、または実際に安全な自殺行為、たとえば手首を切る代わりに、手首を切ったつもりになって赤ペンで切り傷を描いてみるとか、首を吊った時を想像して何分も息を止め続けてみる(かなり苦しくなりますが、最後には息を吸うことになります)とかして、「死んでみる」体験をすることを勧めるのです(くどくなりますが、あくまで、本気で死にたいと思っている人たちに対して、の話です)。

特に、うつ病やうつ病になりやすい性格の方は、「死ぬ」ことによって再生する、という物語に惹かれがちです。「死と再生」というテーマは、古今東西の各民族の神話や聖書のキリストの話など、大昔の話から現代の小説に至るまで、人間が語り尽くすことができていないテーマなので、うつ病を患っている人でなくても惹かれるものがあります。

しかし、繰り返しになりますが、「死ぬ」という経験は誰もが一生に1回だけしかできない行為・体験ですので、その前に「1回死んでみる」という思考体験を勧める次第です。

ただし、うつ病その他で病状が重い人は、妄想に支配されたり、認知症のように思考力が一時的に大きく損なわれていることがあったりしますから、これまで述べたような思考実験は実行できませんので、そうした方々の御家族や支援者には、「1回死んでみる」なんて勧めずに、専門医の診察を急いでくださるようにお願いします。