「人の心がわかる」とは

かつて私は「認知症疾患センター」の責任者として働いていたことがあります。そこでは、認知症の鑑別診断をしながら(認知症だけでもたくさんの分類がありますし、認知症の症状が生じる病気はもっとたくさんあるのです)、認知症の人と御家族へのケアにつき、看護師やソーシャルワーカーと一緒のチームで対応してきました。

その当時、中国地方の山奥に、ユニークな認知症のケアを実践している老人施設があると聞き、私たちは見学に行ってきました。

そこでは、入所している認知症の人の症状につき、医学的な用語でラベル付けをすることを厳に戒めていました。例えば、その施設の教育係は、「認知症に本当の幻覚は無い、幻覚のように見えるのは昔の思い出がよみがえっているだけ」と、職員を教育していたのです。
むろん、幻覚症状につき、このような理解は医学的には誤っています。認知症の人に限りませんが、幻覚という症状は、昔の思い出でもトラウマのフラッシュバックでもない、錯覚や思いつき、思いこみとしか言いようのない症状も多いのです。

それでも私は、そのような幻覚症状についての解釈は、認知症の人のケアにおいて、実践として有益であったと思います。それは、施設での介護の実際を見て実感しました。

その施設では、入所者の受け持ち介護士は、徘徊する老人の後ろに付いて回り(たとえ徘徊が1時間続いても付いて回るのです!)、老人が何をどのように見ているかを想像しているとのことでした。また、家族に入所者の生活史を詳細に尋ねて、受け持ち介護士が「入所者が主語の自分史」 を作成することを義務付けられていました。それは例えばこんな感じです、「私は大正5年生まれ、東京の墨田区の育ちです。父はロープ商を営んでいて、結構商売がうまく行っていたのでお嬢さん育ちですの。家には若い女中さんがいましたわ。中学生の時には家族で銀座を歩いて、観劇も楽しみましたわ。でも、戦争が始まって、兄が出陣してからね・・・」。こうした「自分史」を、入所者の身になったつもりで介護者が作り上げ、まるで入所者本人が読んでいるかのように朗読するのを私は聞きました。
そのような認知症の人の背景にある人生を知った介護士が、認知症の人が徘徊する時に後ろから同じ視点で同じ物を見るならば、まったくの錯覚である幻覚が見えているのか、それとも過去の体験が思い出されているのか、かなりわかると思います。

たとえその幻覚症状の理解が誤解であったとしても、やはり私はその理解の仕方は治療的だと思うのです。自分の状態をうまく表現できない人に対して、相手の心理を推測し、共感していくアプローチとして、この方法は大変有効だと思うのです。
認知症などの疾患に限らず、健康な相手であっても、まだ親しくなっていない相手について、相手の気持ちを理解しようとする時、まずは相手の視線に立ってみて物を見ていこうとする姿勢は、たとえ誤解があろうとも、相手には気持ちが伝わります。もし誤解があってもそれは付き合っていくうちに解けていきます。相手に共感する、というプロセスは、始めに多少の誤解があってから進んでいくものではないでしょうか。(恋愛関係など、対人関係の経験が豊富な方なら当たり前のことと思われるのではないでしょうか。)

今の私の診療にも、この施設で学んだアプローチは生かされていると思っています。